ご飯を残すと目が潰れる──その呪い、誰がかけたんや。

「ご飯を残すと、目が潰れる」
子どもの頃、誰に教わったわけでもないのに、いつの間にか知っていた気がする。
茶碗の底にちょこんと残った米粒を、しゃもじの背でこそぎ落とすたび、あの言葉が脳内に流れてくる。
目が潰れるって、どんな罰やねん。
ちょっと残しただけで視力奪うとか、神様サイドもだいぶ厳しい運用してる。
でもまあ、そのおかげで茶碗をピカピカにできる人間が育ったのも事実だな。
食育とは、時に“呪文”として機能することもあるのだと、今になって思う。
──けど、ふと考えると、いろいろ謎も多い。
「誰が言い出したんやろ?」
「ほんまに目、潰れた人っているんか?」
「そもそも“潰れる”って表現、過激すぎひん?」
教えてくれ、神よ──それ、どこ情報や。
「目が潰れる」って、言いすぎじゃない?
改めてこのフレーズを聞くと、破壊力がすごい。
子どもに向けて言う言葉ちゃう。いや、むしろ子どもだからこそ言ってたんやろうけど。
米を一粒でも残すと、突然視力を持っていかれる。
って、そんな中二設定いる?
なんでいきなり失明なん?
デスノートかよ。
「この茶碗に米粒を残した者は、視界を奪われる──!」
腹痛とか下痢とか、もっとマイルドなペナルティにしてくれ。
しかも、残したら即アウト。猶予ゼロ。
目の神様、情け容赦なさすぎやろ。
こうやって思い返すと、「食べ残し=恐怖で回避」って発想は、
もはやしつけというより、オカルト寄りの安全保障政策やったんちゃうか。

調べてみたけど、出典ゼロやんけ。
気になったので調べてみた。
「ご飯を残すと目が潰れる」──由来、なし!
Wikipediaにも、論文にも、歴史的資料にも、明確な出典は見当たらん。
一説には、戦時中や戦後の食糧難の名残とも言われてる。
「食べ物を粗末にするな」という価値観を、短く・強く・怖く伝えるための言葉。
類似のフレーズもいっぱいある。
- お米一粒に七人の神様
- 食べ残すとバチが当たる
- 箸を茶碗に立てると死者が来る
これら全部、歴史的に正確な根拠があるというより、
“願い”のかたちをした言葉なんだと思う。

じゃあ、本当に残しちゃダメなのか?
ここで立ち止まって考えたくなる。
「ご飯って、絶対に残しちゃいけないものなんやろか?」
たとえば、好き嫌いがある日。
なんとなく食欲がない日。
思ったより量が多かった日──そういう日は誰にでもある。
最近では「無理に食べさせると逆効果になる」って話もよく聞く。
あとから調べてみたら、やっぱりそういう研究もあるらしい。
確かに、自分のペースや好みを尊重されないと、食べることが義務になってまう。
食育は、味覚じゃなくて“気持ち”の問題ではないのか。
「食べないとダメ!」よりも、「なぜ残したのか?」を聞く方がよほど大事だ。
そこには、体調や気分、食感、もしかしたら“気遣い”があるのかもしれない。
たとえば知人の子は、家族でピザを頼んだとき、
「みんなで分けたから最後の1枚は誰かに譲ろう」と思って、あえて残してたらしい。
それを見た親が「なんで食べへんの!」って怒ってしまって、ちょっとしたすれ違いになったらしい。
“ちょっとだけ残す”には、“ちょっとした思いやり”が隠れてることもある。
それを見落として、「残す=悪」で片付けるのは、もったいない気がする。
“目が潰れる”ではなく、“目をひらける”言葉を。
それでも、やはり僕はご飯を残すのが苦手だ。
米粒一粒が、「もったいない」じゃなくて「申し訳ない」。
たぶん、「目が潰れる」という脅しじゃなく、
小さな頃に母が言ってくれた、
「このお米も、農家さんが大事に作ってくれたんやで」
という一言のおかげだと思う。
子どもながらに想像した。
暑い日に田んぼで作業してるおじちゃん。
台風で稲が倒れたのを直してる人。
乾いた手で、米袋を運んでる姿。
そういうのを思い浮かべたら、自然と茶碗を空にしたくなる。
それは“恐怖”ではなく、“感謝”からくる行動だった。
実際、子どもに「食べなさい!」と強制するよりも、
家族が楽しそうに食べる姿を見せることが、食への興味を引き出すと言われている。
「食べなきゃダメ!」というプレッシャーは逆効果で、
無理強いせず、「少しだけ試してみようね」といった柔らかな声かけが推奨されている。
ほんまは、そういう気持ちを育てたいんちゃうか。
目を潰すより、目をひらく言葉を伝えていきたいんちゃうか。

さいごに
「ご飯を残すと目が潰れる」
たしかに、ちょっとだけ怖い言葉やけど、
その奥には“ご飯を大切にしてほしい”という祈りが詰まってたんやろう。
でもこれからは、ちょっと言い方を変えてみてもええんちゃうか。
たとえば──
「ご飯を食べると、見えるようになる」
見えるようになるのは、作ってくれた人の姿かもしれへんし、
自分の身体の変化かもしれへんし、
世界のありがたみかもしれん。
ご飯は、視力を奪う存在やない。
むしろ、“見えないもの”を見せてくれる存在なんや。
今日も僕は、白ご飯をきれいに平らげる。
視力はまだ健在──
やけど、茶碗を見つめていたら、ちょっとだけ涙でにじんで見える。