誰も食べない唐揚げに、みんなが気を使ってる

「最後の一個」から逃げる我々
──唐揚げ、あと一個。
この状況、日本人がいちばん黙るタイミングやと思う。
誰も「食べたい」とは言わない。なのに、誰も目をそらさない。
まるでそこに、見てはいけないものが置かれてるみたいや。
これはもう、遺伝子に組み込まれてるんちゃうか。
縄文のご先祖も、たぶん栗1個を囲んで黙ってた。
「どうぞどうぞ」「いやいやお先に」──今と変わらん。
問題は、“最後の一個”ってやたら目立つってこと。
みんなが見てる。その中で手を伸ばすのは、目立ちたがりか空気の読めない人か。
だからこそ、「譲る」という選択肢が安全に見える。
やさしさの顔をしながら、自分の評価を守れる。
でも考えてみてほしい。
「譲り合い」って、ほんまに相手のため?
「自分が得したと思われたくない」っていう、ちょっとした保身ちゃうん?
日本では、和を乱さないことが大切にされる。
特に人間関係が長く続く社会では、一度「空気読めない」と思われたら、その印象は長引く。
だからこそ、唐揚げは残される。誰かが取ってくれるのを、じっと待つ。
──唐揚げを残したのは、優しさかもしれない。
でもその中には、“自分が損しないようにする知恵”も、きっと混じってる。
「1cmだけ残し」は、やさしさの仮面をかぶったズルさ
給湯室のポットに、1cmだけお湯が残ってる。
冷蔵庫の麦茶も、ペットボトルの水も、シャンプーのボトルも──
どうしてそんな絶妙な“残量”で止めるのか。毎回、首をかしげてしまう。
これ、「自分が最後に使い切ったと思われたくない」心理が働いてるんよな。
誰も言わへんけど、全員ちょっとずつ罪を回避しようとしてる。
「自分が補充するのはイヤやけど、使い切ったとも言われたくない」
そんな人たちの共同作業の結果が、“1cm残し”なんや。
しかもややこしいのは、それが「気を遣ってる」ようにも見えること。
「全部使わないようにしてる=親切」と誤解されがち。
でも実際は、“責任の回避”という防御行動でしかない。
これって要するに、「自分が悪く見られたくない」ための、都合のいいやさしさなんよな。
やってることはズルい。でも、ズルいとは言えない。そういう“グレーの美学”が、ここにある。
そしてこの1cm残し文化は、じつは日本の社会構造と相性が良すぎる。
誰かがやってくれるのを待つ、でも誰も直接は頼まない。
責任を取る人が自然に現れるのを、みんなで静かに期待してる。
──「最後の一人にはなりたくない」。
それが、“ちょっとだけ残す”という行動に変わって現れてるだけや。
空気に殺されないために、残す。
唐揚げ、ピザ、ナゲット、たけのこの里──ジャンルを問わず、「最後の一個」を前にすると、人は途端に黙りこむ。
「どうぞ」と口では言う。でも本音は、違うところにある。
「自分が取ったら、“空気読めへんやつ”って思われるかもしれへん」
その気配が、テーブルの上に張り詰めるように漂っていく。
ここで問われているのは、行動の意味ではなく“印象”だ。
取った人がどう思っていたかより、「周囲からどう見えるか」のほうが、ずっと重たい。
だから、人は動かない。残す。それが一番安全。
誰にも責められず、誰の感情も波立てない。
やさしさのふりをしながら、自分の評価を守ることができる。
気が利くって、本来は“誰かのために”動くことだったはず。
それが今や、“自分が嫌われへんように”動くことになってへんか?
ちょっとだけ残すという行動の裏には、やさしさと同じくらい、責任を引き受けたくない気持ちが潜んでる。
そしてそれを、やさしさとして扱ってしまうのが、この国の不思議な空気なんやろな。
本当のやさしさって、なに?
「残しといたで」って、たしかに親切に見える。
でもその“やさしさ”、ほんまに相手のためなんやろか。
最後の唐揚げを取らずに譲る。
冷蔵庫の麦茶を1cmだけ残す。
「あとで飲む人がいるかも」「全部使い切るのは気が引ける」
そういう思いがゼロとは言わない。でも、その中に――
「自分が気まずくなりたくない」「悪く思われたくない」って感情が混じってること、ないやろか。
“ちょっとだけ残す”行動って、ほんまは他人を想うふりをしながら、
「自分が責められない場所」に立ち続けるためのポジショニングなんかもしれへん。
もちろん、全部がそうじゃない。
ときには本気で人を想って、譲ることもある。
でも、誰にも非がなく、誰にも罪がないふうに見えるこの文化の中には、
「優しさに見せかけた責任回避」が、たしかに潜んでる。
ほんまのやさしさって、なんやろな。
「譲る」でも「取らない」でもなく、ちゃんと相手の気持ちを想像して動くことなんちゃうか。
ほんとは取ったほうが場が和むのに、
「気を遣ってるように見える」ために、誰も動かへん。
そうやって積もる小さな遠慮が、いつのまにか“関係性の澱”になっていく。
やさしさって、気配りの顔をした沈黙だけじゃない。
ときには、黙って唐揚げを一個食べることが優しさになるんじゃないだろうか。
最後の唐揚げを、笑顔で食べよう
気を遣いすぎて、唐揚げが冷えていく。
お湯が1cmだけ残されて、誰もポットを満たさない。
ペットボトルに口をつけずに残された一口分の麦茶が、ずっと冷蔵庫にいる。
みんながやってるのは、やさしさのようでいて、
じつは「自分が悪く見られないようにする」ためのちいさな防衛や。
それを責めることはできない。
この社会で生きていくには、空気を読む力も、嫌われない工夫も、必要やから。
でも――
それだけが“正解”やとは思わんのよな。
本当はもっと気楽に、もっと笑って、
「あ、食べた?よかったなー」って言い合える関係のほうが、ずっと健やかやと思う。
だから、こう言いたい。
唐揚げ、食べていい。
堂々と。笑って。「おいしかった!」って言いながら。
それを見て、「そっか、食べたかったんやな」って笑い合える人といたい。
“ちょっとだけ残す文化”は、日本の繊細さの象徴やけど、
ときにそれは、“素直になれない文化”でもある。
ならいっそ、素直にいこう。
自分の気持ちにも、相手の気持ちにも、まっすぐな人でいたい。
唐揚げを、笑顔で食べること。
それがこの時代に求められる、”やさしさ”やと僕は思う。