トイレという個室が、俺たちを救ってくれる

ある日、職場でミスをした。
ほんの些細な伝達の食い違い。
でも、次々に指摘され、心がズタズタになった僕は、
逃げるように向かった。
──トイレである。
鍵がかかる。それだけで尊い。
「自分だけの空間」って、意外とない。
家には家族がいる。
職場には同僚や上司がいる。
カフェには店員がいるし、電車には知らない誰かがいる。
SNSですら、常に誰かの視線がある。
そんな中で、トイレの個室だけは特別だ。
ドアを閉め、鍵をかけた瞬間、そこは誰にも邪魔されない領域になる。
しかもそれが、社会的にも許容されている。
「ちょっとトイレに行ってきます」は、どんな会議の空気よりも強力な免罪符だ。
用を足さなくても、入ってしまえばこっちのもの。
たった数分でも、完全な「ひとり」を保証してくれる空間は貴重だ。
魂のバッファゾーン
たとえば、会議で詰められてで心が折れかけたとき。
恋人との喧嘩で、気持ちがぐちゃぐちゃになったとき。
理不尽な叱責で、言葉も出ないまま立ち尽くしたとき。
僕たちは叫ばないし、暴れたりもしない。
──トイレに向かう。
個室に入って、スマホを開く。
X(旧Twitter)を眺めて「もう無理」「疲れた」なんて投稿を見つけると、
「自分だけじゃない」と思える。
誰にも聞かれていないのに、水を流す。
その音が、気持ちをリセットしてくれる気がする。
──あくまで“気がする”だけだけど、
それがあるのとないのとでは、天と地ほど違う。
でも、そこにずっとはいられない。
トイレは聖域だ。
でも、その聖域には時間制限がある。
スマホを置いたとき、便座の冷たさがふいに意識に戻ってくる。
「そろそろ、出なければ」と、自分の中の何かが告げる。
外の世界には、終わっていない仕事がある。
話しかけてくる上司がいるかもしれない。
未読のメッセージが、Slackにたまっているかもしれない。
──正直、怖い。
けれど、それでも人は立ち上がる。
パンツを上げ、ベルトを締める。
鏡で自分の顔を確認して、小さく「よし」と呟く。
そして、トイレを出る。
誰にも見られていないけれど、それは小さな出陣式だ。
ほんの数秒間で、僕たちは自分をもう一度つくりなおしている。

あなたにとっての“トイレ”はありますか?
ここまで語ってきたのは、物理的なトイレの話だけれど──
実はもっと大事なのは、心のトイレかもしれない。
通知も来ず、誰にも見られず、誰の期待にも応えなくていい空間。
「誰でもない自分」でいられる時間。
大人になればなるほど、それは見つけにくくなる。
どこに行っても、何かの役割を背負わされる。
職場では上司や部下。
家庭では親や子ども。
SNSではフォロワーを持つ誰か、あるいは過去の発言を覚えられている誰か。
──自分って、誰だったっけ?
そう思ったとき、立ち止まれる場所があるかどうか。
僕にとっては、駅のベンチで飲むコンビニのコーヒーだったり、
寝かしつけた子どもの隣で、静かにポテチを食べる時間だったりする。
人によっては、誰もいない本屋の2階だったり、
夕暮れの河川敷だったり、あえてひと駅ぶん歩く帰り道かもしれない。
「逃げる場所」じゃない。
「整える場所」なのだ。
感情をゼロに戻して、
もう一度、社会での自分に着替えるための準備室。
それをちゃんと持っている人は、たぶん、強い。
僕たちは、ちゃんと「逃げて」いい。
トイレに逃げることは、弱さじゃない。
それは、ちゃんとした防御だ。
自分を守るために必要な、立派なスキルだ。
誰にも迷惑をかけず、
自分の中だけで整えて、
また戻ってくる──それができる人は、本当にかっこいい。
だから今日も、僕はこの言葉を使う。
「ちょっと、トイレ行ってきます」
──それは、戦士のセリフだ。