思索・コラム

電車内で立つべきか、座るべきか──現代人のシェイクスピア問題

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朝の通勤電車。キュッ、という音とともに、目の前の席が空いた。
──さて、どうする?
座るか? 立ったままか?
この一見どうでもよさそうな判断に、僕らは毎朝、無意識に人生をかけている。

考えてみてほしい。
もしあなたが立ったままなら、「あの人、なんで座らへんのやろ…」と思われるかもしれない。
逆に座ったら座ったで、目の前に立つおばあちゃんの存在がプレッシャーになる。
目を閉じて寝たふりするにも、まだ到着駅まで20分ある──

「自由にしていいですよ」と言われてるのに、まったく自由を感じられないのはなぜなのか。
座るとラク。立つと気楽。でも、どっちもどこか気まずい。
この判断に、正解なんてあるのか?

電車とは、ただの移動手段ではない。
それは、「現代人の良心と体力のバランス感覚」を試される、静かなる戦場なのだ。

座るという選択肢

人間は、座れるときに座りたい生き物である。
空いた席を前にして、僕たちはこう思う。「いや〜、座っとくか。立ってる理由ないしな」って。

それは自然な判断だ。人間は基本、座りたがりの生き物なのだから。
仕事でも、飲み会でも、トイレでも。「座れない状況」ならば、なんとかして椅子を引き寄せようとする。

でも──電車の中だけは、話がややこしい。

座った瞬間から、前に立っている“誰か”の存在が気になり始める。
「俺が座ってええんか?」「もしかしてこの人、腰悪いんちゃうか?」
スマホに集中するフリをしても、視線の圧がスクリーン越しに届いてくる気がする。

そして一番ややこしいのが、「譲るべきなのか判別できない人」が目の前に来たときだ。

  • 妊婦かもしれない(けど違ったら失礼)
  • 高齢者っぽい(でも若く見えるだけかも)
  • ギプスしてるけど、なんか元気そう

「譲ります」って言っても、逆に「いや、結構です」って言われたときの
“社会的敗北感”を想像してしまって、結果──動けない。

座るとは、楽になることではなく、
“周囲の期待と己の良心との戦い”を静かに開始する儀式なのである。

立つという選択肢

なぜ人は、自由席をスルーして立ち尽くすのか。
座れる。でも、座らない。

なぜか。それは、立ってる方が精神的にラクなときがあるからだ。

座れば肉体は休まる。けれど、目の前のプレッシャー、譲るか譲らないかの即時判断、
そのあとの“寝たふり or 会釈 or 睨まれる”ルートの分岐──もう、イベントが多すぎませんかね?

立ってるときは、それがない。無言で立ってるだけで、全人類に
「別に座りたいとは思ってませんけど?」という防御バフがかかる。

もちろん、揺れる。つらい。スマホもブレる。
けど、なんかちょっと“戦ってる自分”がカッコよくすら感じる。
「俺、やれてるわ」って思う瞬間がある。

そして、立ってるときに気になってしまうもの、それは──
座ってる人の“たるんだ顔”が目に入ることだ。

人間って座るとマジで気が緩むらしいな。
あくび・鼻ほじ・眠気マナコ・足組みスライドショー。

見たくなくても、視界に入ってきてしまう。
この絶妙な“視線の位置関係”が、立ってる人の心を静かに削る。

そう、立つことは「何もしてない」ようで、実はめちゃくちゃ気を使ってる選択なのだ。
この世界には、“ただの棒立ち”にすら倫理がある。

席取り倫理観

譲るのか、譲らないのか。それが問題だ。
電車の座席──それは「誰のものでもないのに、誰かのもののような顔をしている」空間や。

現代人の朝は、「席に座れるか座れないか」で機嫌が左右される。
にもかかわらず、その席には明文化されない“倫理ルール”が存在する。

1.優先席、座る?座らない?

優先席──その響きだけで背筋が伸びる。
「座っていいけど、譲れる覚悟のある者だけが座れ」という、なんとも重苦しい椅子。

どうやら人間は、親切をしようとする時が一番怖いらしい。

優先座席に座るには、しかるべきタイミングを見極め、適切な相手に対して席を譲る必要があるからだ。

つまり、”常に周囲に気を配りつづけなければならない”という、プレッシャーを背負いつづける席なのだ。

2.SNSの監視社会というプレッシャー

  • 「電車でスマホいじってた若者が譲らなかった」
  • 「〇〇線での神対応が話題に!」

その一部始終が、#バズらせ正義の民によってネットにさらされるこの時代。
電車の中は監視社会のディストピアなのだ。

親切な人は感動動画に。
無関心な人は炎上スレに。
席に座るだけで、映像化の可能性があるなんて怖すぎる。

3.「寝たふり」と「目線の逃げ場」文化

ある人は目を閉じ、
ある人は広告ポスターを見上げ、
ある人はスマホを無意味に開閉し続ける──

この空間に流れるのは、
「自分が席を譲るべき人間じゃないことにしたい」という、
沈黙の自己防衛バトルである。

座る人、立つ人、譲る人、寝たふりする人。
誰も悪くない。けれど、誰もが“どこかで負けている”。

本当に自由でいいのか?

「ご自由にお座りください」と言われても。
電車の座席は、基本的に自由席だ。
でも──「自由」って、そんなに自由なのだろうか?

座るも立つも自由。譲っても譲らなくても自由。
スマホ見ててもいいし、寝ててもいい。服装も自由、目線も自由、マスクも今は任意。
…なのに、なぜか気を遣う。

この“気まずい自由さ”は、現代のあらゆる場所に潜んでいる。

  • 「何食べてもいいよ」→一番迷う
  • 「好きに働いていいよ」→責任が重い
  • 「自由に席どうぞ」→どこへ行けばよいのか

つまり自由とは、
「選択する責任」を自分で持たされることに他ならない。

電車で座るか、立つか。

それは体力の問題ではなく、
人間関係のシミュレーションゲームなのかもしれない。

僕らは、今日も電車に乗る。
眠そうな顔をして、スマホをいじって、少しだけ周りを気にして、
それでも誰かの優しさに、ちょっとだけ救われたりする。

この満員の箱の中には、
人の数だけの「気遣い」と「譲れなさ」と「小さな選択」が詰まっている。

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